恋愛物語〜沙織の恋、はじまりの場所〜 第3話「言えなかった本音」

大学のサークルで出会った遼さんと付き合い始めて、半年ほど。彼の好みに料理を合わせ、予定も彼を中心に組むのが、いつのまにか当たり前になっていました。「ありがとう」のひと言が嬉しくて、私はもっと、もっと、と気持ちを募らせていたんです。

でもその頃から、私の胸の奥には、まだ名前のつかない小さなしこりが生まれ始めていました。今日はその話を、少しだけさせてくださいね。

* * *

あれは確か、初夏のことでした。私はずっと、海の見える町へ旅行に行きたかったんです。サークルの写真展で見た一枚の風景が、頭から離れなくて。

勇気を出して、遼さんに言ってみました。「ねえ、夏にどこか行かない? 海とか……」

彼はスマホから顔も上げずに、「うーん、夏は仕事忙しいんだよなあ」と答えました。「沙織が行きたいなら、また落ち着いたら考えよ」

その「また」が来ないことを、私はなんとなく分かっていた気がします。それでも私は、「うん、そうだよね。無理しなくていいよ」と笑ってしまったんです。

本当は、一緒に行きたかった。その四文字を、私は喉の奥でそっと押し込めました。

* * *

そういうことは、一度や二度ではありませんでした。

楽しみにしていた約束を、当日になって「ごめん、今日眠くて」とドタキャンされたこともあります。冷蔵庫には、彼の好きなものを詰めた手料理が並んでいました。

がっかりした気持ちは、確かにあったんです。でも私は、こう考えてしまいました。「ここで責めたら、重い女だと思われちゃうかも」って。

だから返したのは、「ううん、大丈夫! ゆっくり休んでね」という明るいメッセージ。送信ボタンを押した指先が、なぜか少しだけ冷たかったのを覚えています。

嫌われたくない。失いたくない。その気持ちが、私の本音にいつも蓋をしていました。今思えば、それは「優しさ」というより、「怖さ」だったのかもしれません。

* * *

ある夜、一人の部屋で、私はキャンセルになった海の写真集をめくっていました。波の音まで聞こえてきそうな、青い一枚。

ふと、心の奥のほうから、知らない声が聞こえた気がしたんです。

——わたしばっかり、我慢してない?

その声に、自分でもびっくりしました。違う、違う、と慌てて打ち消したんです。好きだから合わせてるんだもの、我慢なんかじゃない、って。

でも一度芽生えてしまった声は、思っていたより、しぶとくて。布団に入っても、なかなか消えてくれませんでした。

* * *

翌日、美月に何気なく旅行の話をしたとき、彼女は眉をひそめました。「え、沙織がそんなに行きたがってたのに?」

「うん、でも遼さん忙しいし……仕方ないよ」

そう言った私を、美月はじっと見つめて、ぽつりと言ったんです。「沙織さ、最近『仕方ない』って口癖だよ」

はっとしました。確かに私は、そのひと言で、自分の気持ちをいくつも飲み込んできた気がして。

「我慢って、本人が気づかないうちに溜まるんだよ」。美月の声は、いつもより少しだけ静かでした。私は笑ってごまかしながら、胸の奥のしこりが、ほんの少し疼いたのを感じていました。

* * *

……ねえ、こういうの、分かりますか。「重いと思われたくない」って、本音をぐっと飲み込んじゃう感覚。私は、痛いほど分かります。だってずっと、そうしてきたから。

当時の私は、本音を言わないことが、優しさだと思っていました。波風を立てないことが、愛だと信じていたんです。

でも今なら、横にいるあなたにこう言いたい。言えなかった本音は、消えてなくなるわけじゃないって。それは心の奥に静かに積もって、いつか「わたしばっかり」という声になって返ってくる。

あのときの私に、ひとつだけ伝えられるなら——「行きたい」って、ちゃんと言ってもよかったんだよ、と。それは決して、重いことなんかじゃなかったんです。

小さな我慢が、少しずつ私の心に降り積もり始めた夏。そのことに気づくまでには、もう少しだけ時間がかかります。続きは、また次回にお話しさせてくださいね。

📖 恋愛物語〜沙織の恋、はじまりの場所〜(全10話)

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