遼との恋に夢中になるうちに、わたしは行きたかった旅行も、嫌だった約束のドタキャンも、笑って飲み込むようになっていました。心の奥には「わたしばっかり」という小さな声。美月に「最近〈仕方ない〉が口癖だよ」と言われて、ちょっとだけドキッとして——でも、まだ認めたくなかったんです。
あれは、初夏の土曜日でした。久しぶりに美月とランチをしようって、ずっと前から約束していたんです。
大学の近くの、小さなパスタ屋さん。窓から差し込む光がやわらかくて、わたしたちのお気に入りの席でした。
「沙織、久しぶりすぎてびっくりしたよ」
美月はそう言って、半分笑って、半分あきれたみたいな顔をしました。
「ごめんね、最近ちょっとバタバタしてて」
わたしは、いつものように笑ってごまかしたつもりでした。
* * *
料理を待つあいだ、美月はサークルのこと、最近ハマっているドラマのこと、バイト先の面倒な先輩のこと——いろんな話をしてくれました。
わたしは「うんうん」「分かる」「それ大変だね」って、ずっと相づちを打っていました。気づけば、ほとんど聞き役でした。
パスタが運ばれてきて、二人で「おいしいね」と笑い合ったとき。ふと、美月がフォークを置いて、まっすぐにわたしを見たんです。
「ねえ、沙織。さっきから思ってたんだけどさ」
「うん?」
「最近、自分の話、全然しないね。」
その一言が、なんだか胸の真ん中に、すとんと落ちてきました。
「えー、そんなことないでしょ」
とっさにそう返したけれど、自分でも声が少し上ずっていたのが分かりました。
* * *
「じゃあ聞くけど」と美月は続けました。
「最近、沙織が観てる映画って何? 行きたい場所は? 週末、自分のためだけに使った時間って、いつ?」
わたしは、答えようとして——言葉が出てきませんでした。
頭に浮かぶのは、全部「遼」だったんです。遼の好きな映画。遼と行った場所。週末は遼の予定に合わせて空けておく。
あれ、わたし、最近なに観たんだっけ。最後に自分の行きたい場所に行ったのって、いつだったかな。
思い出そうとすればするほど、自分の輪郭がぼんやりとにじんでいくような、不思議な感覚がしました。
「……べつに、好きでそうしてるんだもん」
気づいたら、わたしはそんなふうに言っていました。
「好きな人に合わせるのなんて、当然のことでしょ」
正直に言うと、当時のわたしはこの言葉を、自分に言い聞かせるために口にしていたんだと思います。美月にじゃなくて、わたし自身に。
* * *
美月は、すぐには言い返しませんでした。少しのあいだ、窓の外をぼんやり見て——それから、ゆっくり口を開きました。
「当然って、便利な言葉だよね」
「え?」
「それ言っちゃうと、自分が無理してるかどうか、考えなくてよくなるから」
胸の奥が、ちくりとしました。図星を、やわらかく刺された感じでした。
「あのね、沙織」
美月の声は、いつものはっきりした調子じゃなくて、めずらしく優しかったんです。
「わたしは別に、遼さんが悪いって言いたいわけじゃないよ。ただ……前の沙織のほうが、わたしは好きだったな」
前の、わたし。
その言葉が、しばらく耳の奥に残りました。
笑ってごまかそうとしたのに、なぜかうまく笑えなくて。わたしは「考えすぎだよ」って、小さくつぶやくのが精いっぱいでした。
* * *
その日の帰り道、一人で電車に揺られながら、わたしはずっとぼんやりしていました。
スマホを開くと、遼から「今夜ひま? 飯いこ」とメッセージが来ていて。わたしは反射的に「いいよ! 何食べたい?」と打ち込もうとして——指が、止まりました。
何食べたい? じゃなくて。わたしは今日、何が食べたいんだっけ。
そんな単純なことすら、すぐには浮かんでこなかったんです。
結局わたしは、いつもどおり「いいよ! 何食べたい?」と送りました。送ってから、なんだか少しだけ、息が苦しかった。
美月の言葉が、頭の隅でずっと点滅していました。前の沙織のほうが、好きだったな。
——今だから分かります。あのとき美月は、たぶんわたしが言葉にできていなかった気持ちを、代わりにすくい上げようとしてくれていたんですよね。「あなた、本当はちょっと疲れてない?」って。
でも当時のわたしは、それを受け取る勇気がありませんでした。受け取ってしまったら、この恋のなにかを、認めなきゃいけなくなる気がして。
窓の外を、夕暮れの街が流れていきました。きれいだな、と思ったのに、それを誰かに伝えたいとも思わなくて。わたしの「好き」は、もう、自分の中からこぼれ落ちはじめていたのかもしれません。





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