恋愛物語〜沙織の恋、はじまりの場所〜 第2話「「ありがとう」がうれしくて」

写真サークルで出会った三つ年上の遼さん。初冬の夜に告白されて、私は付き合うことになりました。「必要とされる喜び」に、当時の私は胸がいっぱいだったんです。

今思えば、その幸せには少しだけ、危ういものが混じっていたのですけれど。

* * *

付き合い始めて最初に覚えたのは、料理でした。遼さんが「実は和食が好きなんだよね」とぽつりと言ったのを、私は聞き逃しませんでした。

それまで自炊なんてほとんどしたことがなかったのに、私はその日のうちにレシピサイトをいくつもブックマークして。だし巻き卵の作り方を、夜中まで動画で見ていたんです。

初めて作った肉じゃがは、正直、味が薄かったと思います。それでも遼さんは一口食べて、「うまい。沙織って、こういうのできるんだ」って笑ってくれました。

その一言で、私の世界がぱっと明るくなったのを覚えています。

* * *

それから私は、どんどん遼さんに合わせるようになっていきました。彼が観たい映画、行きたいお店、聴きたい音楽。気づけば私の「好き」より、彼の「好き」を覚えることのほうが多くなっていて。

休日の予定も、彼の仕事のシフトに合わせて空けておくのが当たり前になりました。本当は友達と約束していた日も、「遼さんが休みになりそう」と聞けば、そちらを優先してしまうんです。

でも、それを苦しいとは思いませんでした。むしろ、嬉しかった。

だって遼さんは、ちゃんと言ってくれるんです。「沙織がいてくれてよかった」って。

その言葉が、私にとっては何よりのごほうびでした。誰かにとって特別な存在でいられること——それが、あの頃の私の自信そのものだったんですよね。

* * *

ある日、美月とお昼を食べていたときのことです。私が「遼さんが餃子好きだから、皮から作ってみたんだ」と話すと、美月はお箸を止めて、ちょっとだけ眉を寄せました。

「沙織さ、すごいけど……自分のことは、ちゃんとできてる?」

「え、どういうこと?」

「最近、沙織の『好き』の話、聞いてないなって。全部、遼さんの『好き』じゃない?」

私は笑って、「好きな人のためにやってるんだから、当然だよ」と返しました。本当に、心からそう思っていたんです。

でも美月は、笑い返してはくれませんでした。「無理してないならいいけど」とだけ言って、また餃子をつまんでいました。

その横顔が、なんだか少しさみしそうに見えたのを、今でも覚えています。

* * *

——皆さんは、こういう感覚、分かりますか。誰かに「ありがとう」と言われるたびに、自分の存在が許されたような気がする、あの感じ。

私はずっと、自分にあまり自信がなくて。だからこそ、遼さんの「ありがとう」は麻薬みたいに効いたんです。もっと言ってほしくて、もっと喜ばせたくて。

でも今なら分かるんですよね。あのときの「もっと」は、実は彼のためじゃなかった。「もっと喜ばせれば、嫌われずに済む」——そんな怖さが、ちゃんと隠れていたんです。

尽くすことそのものは、悪いことじゃないと思います。私だって、今でも好きな人には何かしてあげたい。それは自然な気持ちですから。

ただ、自分の「好き」をひとつずつ後回しにしていることに、当時の私はまるで気づいていませんでした。少しずつ、自分を削っていることに。

* * *

その夜、遼さんからメッセージが届きました。「今日の餃子、また食べたいな」。たったそれだけで、私はにやけてしまって。

もう次は何を作ろうかと、ベッドの中でレシピを探していました。幸せでした。本当に、嘘じゃなく。

ただ——その日、私が前から行きたかった写真展の最終日だったこと。それを思い出したのは、ずいぶんあとになってからでした。

気づかなかったんじゃないんです。気づかないふりが、もう、上手になり始めていたのかもしれません。

📖 恋愛物語〜沙織の恋、はじまりの場所〜(全10話)

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