遼との恋を終えて、私は少しずつ自分の『好き』を取り戻していきました。母の言葉や、美月との時間、そしてカメラ。空っぽだった胸に、ゆっくりと新しい何かが芽生えていったんです。
あれから、数年が経ちました。
今の私は、恋愛相談サイト『恋ことば』で、誰かの言葉に返事を書く仕事をしています。会ったこともない人の悩みに、画面越しに向き合う毎日です。
正直に言うと、最初は自信なんてありませんでした。私なんかが、人の恋に口を出していいのかなって。だって私、あんなに不器用な恋をしてきたんですから。
* * *
ある夜、一通の相談が届きました。書いたのは、二十歳の女の子。
「彼の好みに合わせて、料理も、予定も、全部がんばっています。なのに、ちっとも満たされません。私、おかしいんでしょうか」
その文章を読んだとき、胸の奥がぎゅっとなりました。あ、これ、私だ。って。
『仕方ない』が口癖だったあの頃。自分の食べたいものすら浮かばなくなっていた、あの夜の私。文字の向こうに、過去の自分が立っているみたいでした。
私はしばらく、返事を書けませんでした。下手な言葉で、この子を傷つけたくなかったから。
* * *
その週末、私は久しぶりに美月と会いました。相変わらずはっきりものを言う彼女に、相談のことを話したんです。
「沙織さ、昔の自分に手紙書くつもりで返事したら?」
美月はコーヒーを片手に、あっさりそう言いました。
「あんた、あの頃ほんとにしんどそうだったもん。でも今のあんたなら、あの頃の沙織にちゃんと声かけてあげられるでしょ」
その一言で、すっと肩の力が抜けました。そうですよね。私は『正しい答え』を教える人じゃなくて、ただ、横に並んで一緒に悩める人でいたかったんです。
家に帰って、私はパソコンを開きました。そして、あの頃の自分に手紙を書くつもりで、ゆっくり言葉を綴りました。
* * *
「あー、それ、すごく分かります。私も昔、まったく同じことで悩みました」
私はそう書き出しました。
「もしかして、がんばればがんばるほど、自分のことが分からなくなっていませんか? 嫌われたくなくて、本音を一番隠していたのは、自分自身だった——なんてことも」
書きながら、涙がにじみました。これは、あの頃の私が誰かに言ってほしかった言葉そのものだったから。
「尽くすことは、悪いことじゃないんです。でもね、相手を大切にすることと、自分を大切にすることは、本当は対立しないんですよ。自分を満たせる人だけが、誰かに優しくできるんです」
「だから、どうか『あなたの好き』を手放さないでくださいね。それを大事にできる恋が、きっとあなたを幸せにしてくれます」
送信ボタンを押すとき、私は遼の顔を思い出しました。彼は悪い人じゃなかった。ただ、私が自分を消してしまっただけ。あの恋は、誰かのせいじゃなかったんです。
* * *
数日後、その子から返信が届きました。
「読んで、泣いてしまいました。私、ずっと『おかしいのは自分』って思ってたんです。でも、自分を大切にしていいんだって、初めて思えました」
その短い言葉を、私は何度も読み返しました。あの頃の私が、ほんの少し報われた気がしたんです。
終わった恋は、決して無駄じゃありませんでした。遠回りして、たくさん失敗して、自分を見失って——そのぜんぶがあったから、私は今、誰かの痛みに寄り添える。
窓の外には、初冬の澄んだ空が広がっていました。遼に告白された、あの夜と同じ季節。
私はカメラを手に取って、ベランダに出ました。シャッターを切るたびに、思うんです。あの恋がくれたものは、失ったものよりずっと大きかったんだなって。
もしあなたが今、誰かのために自分をすり減らしているなら。どうか、覚えていてください。あなたの『好き』も、あなたの本音も、ちゃんと大切にしていいものなんですよ。
私も昔、まったく同じことで悩みました。だからこそ、いつでも、あなたの隣で一緒に悩みます。——それが、あの恋がくれた、私のはじまりの場所です。





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