恋愛物語〜沙織の恋、はじまりの場所〜 第9話「空っぽからの再出発」

遼との恋を終えたあの日。私は失恋の悲しみと一緒に、ずっと握りしめていた重い荷物を、そっと下ろしたような気持ちでいました。空っぽの胸に、新しい何かが始まる——そんな予感だけを抱えて。

でも、正直に言うと。別れた直後の私は、その「予感」を信じきれてはいませんでした。

家に帰っても、何をしていいか分からないんです。スマホを開いても、遼に送るメッセージはもうない。あんなに彼中心だった毎日に、ぽっかり穴が空いて、その穴の大きさにただ呆然としていました。

* * *

そんなある日、実家に顔を出したときのことです。母は私の顔を見て、何も聞かずにお味噌汁をよそってくれました。多くを語らない人なんです、私の母は。

食卓で、ぽつりと私がこぼしたんです。「最近、自分が何が好きだったのか、分からなくなっちゃって」って。

母はしばらく黙って、それから箸を置いてこう言いました。

「沙織が笑ってるのが、お母さんは一番いいよ」

その一言が、なぜだか胸の奥にすとんと落ちて。気づいたら、私はうつむいて泣いていました。あー、そうか。私、ずいぶん長いこと、心から笑ってなかったんだなって。

* * *

その日から、少しずつでした。本当に、小さな一歩ずつ。

まず手に取ったのは、あのカメラでした。ベランダで夜空を撮った、あの夜以来そのままになっていたカメラ。今度は昼間に持ち出して、近所の公園まで歩いてみたんです。

光のあたった葉っぱ、ベンチで昼寝する猫、子どもの落とした手袋。ファインダー越しに世界を覗くと、心がふっと静かになるんですよね。「あ、これ好きだったな」って、自分の輪郭が少しだけ戻ってくる感じがしました。

誰かに合わせるためじゃなく、ただ自分が「いいな」と思うものにシャッターを切る。それがこんなにも自由なことだったなんて、すっかり忘れていました。

* * *

美月にも、ようやく連絡できました。「ごはん行こう」って自分から誘ったのは、本当に久しぶりで。

待ち合わせのカフェで、私はぜんぶ話しました。我慢していたこと、別れたこと、自分でも気づかないうちに自分を消していたこと。美月は途中で何度も「うん、うん」と頷いて、最後にこう言ったんです。

「おかえり、沙織」

「え?」

「だってさ、今日の沙織、ちゃんと自分の食べたいもの頼んだじゃん。前は『美月と同じでいい』ばっかりだったのに」

言われて初めて気づきました。メニューを見て、「私はこれが食べたい」って、迷わず選んでいた自分に。

「あー、ほんとだ」
私が笑うと、美月もくしゃっと笑って。「その顔だよ、私が好きだった沙織は」って。

* * *

あのころの私は、ずっと思っていました。「相手を大切にすること」と「自分を大切にすること」は、どちらかを選ぶものだって。だから自分を後回しにすることが、愛することだと信じていたんです。

でも、違ったんですよね。自分を消してしまった私は、結局、相手のことすらちゃんと見られていなかった。「嫌われたくない」で頭がいっぱいで、本当の意味で遼と向き合えていなかった。

もしかしてあなたも、今、似たようなことで悩んでいませんか。「相手のためにこんなに頑張っているのに、どうして満たされないんだろう」って。

私もそうでした。痛いほど分かります。でもね、その満たされなさは、あなたがダメだからじゃないんです。たぶん、あなた自身を置き去りにしているサインなんだと思います。

* * *

カメラを抱えて夕暮れの川べりを歩きながら、私はぼんやり考えていました。

本当に大切にすべきだったのは、遼だけじゃなかった。同じくらい、いや、まず最初に、自分自身を大切にしてあげるべきだったんだって。

自分を満たせる人だけが、本当の意味で誰かに優しくできる。空っぽの器からは、何も注げないんですよね。当時の私には、それがどうしても分からなかった。

夕日がオレンジに染まって、川面がきらきら光っていました。私はファインダーを覗いて、そっとシャッターを切ります。誰のためでもなく、ただ「きれいだな」と思ったから。

胸の空っぽは、まだ完全には埋まっていません。でも、その空っぽは、これから自分の「好き」で満たしていく場所なんだって、ようやく思えるようになりました。

失った恋は、確かに痛かった。けれど、それは私が私を取り戻すための、はじまりの場所でもあったんです。

📖 恋愛物語〜沙織の恋、はじまりの場所〜(全10話)

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