連休の夜、わたしはずっと飲み込んできた本音を、ようやく遼にぶつけました。けれど遼は「なんで言ってくれなかったの」と戸惑うばかり。仲直りしたはずなのに、胸の奥はちっとも晴れなかったんです。
あの夜から、わたしと遼の間には、目に見えない薄い膜のようなものができてしまいました。それは喧嘩よりも、ずっと静かで、ずっと寂しいものでした。
表面上、わたしたちは前と同じように過ごしていました。デートもしたし、笑い合うこともありました。でも、どこかぎこちなくて、お互いに相手の顔色をうかがっているのが分かるんです。
遼は遼なりに、気を遣ってくれていたんだと思います。「沙織、これ食べたかったんじゃない?」「無理してない?」と、前より優しい言葉が増えました。でも——その優しさが、わたしには少し苦しかった。
あー、これ、説明するのが難しいんですけど。気を遣われるたびに、「ああ、わたしたちはもう、自然じゃないんだ」って思い知らされる気がして。正直に言うと、当時のわたしは、そのことから目をそらしていました。
* * *
ある週末、わたしたちはいつものカフェで向かい合っていました。窓の外は小雨で、街の色がにじんで見えました。
コーヒーを一口飲んで、遼がぽつりと言いました。「最近さ、なんか……うまくいってないよね、俺たち」。それは責める口調ではなく、ただ静かに、事実を確かめるような声でした。
わたしは、すぐには答えられませんでした。否定したい気持ちと、その通りだと頷きたい気持ちが、胸の中でせめぎ合っていたんです。
「……うん」。やっと出てきたのは、たった一言でした。それ以上を言うのが、怖かった。言ってしまったら、もう戻れない気がして。
遼は少し困ったように笑って、「俺、ちゃんと沙織のこと見れてなかったんだと思う」と言いました。「でも、どうしたらいいのか、正直わかんないんだ」。
その言葉に、わたしは責める気持ちが湧いてきませんでした。だって、遼を分からなくさせていたのは、ずっと本音を隠してきた、わたし自身でもあったから。
* * *
その帰り道、わたしは一人で雨の中を歩きました。傘を打つ音だけが、やけに大きく聞こえました。
歩きながら、わたしはずっと考えていました。このまま続けても、わたしはまた、本音を隠して笑うんだろうなって。遼に合わせて、自分を小さく折りたたんで。そしてまた、「わたしばっかり」と心の奥でつぶやくんだろうな、って。
それは、遼が悪いからじゃないんです。遼を変えたいわけでもない。ただ、わたしがわたしでいられる場所が、もうこの恋の中にはないような気がしていました。
家に帰って、美月に電話をしました。事情を全部は話していないのに、美月は声を聞いただけで何かを察したみたいでした。
「沙織、無理してない?」。その一言で、わたしの目から涙がこぼれました。「美月……わたし、たぶん、もう——」。続きは、言葉にならなかった。
美月は急かさずに、ただ「うん、うん」と聞いてくれました。最後に、「沙織が決めたことなら、私はどっちでも味方だよ」と言ってくれて。その言葉が、背中をそっと押してくれた気がしました。
* * *
数日後、わたしは遼に会って、別れを切り出しました。声は震えていたし、涙も止まりませんでした。
「ごめんね。たぶん、わたしが弱かったんだと思う。ちゃんと言えなくて、勝手にためこんで」。そう言うと、遼は静かに目を伏せました。
「いや。俺も、甘えてた。ごめんな、沙織」。その声に怒りはなくて、わたしたちは最後に、初めて対等に向き合えた気がしました。皮肉な話ですよね。終わりの瞬間に、やっとちゃんと話せたなんて。
遼が「沙織は、いい子すぎたよ」と言いました。それは優しさだったけれど、わたしの胸を一番深く刺した言葉でもありました。いい子でいようとしすぎて、わたしは自分を見失ったんだって、その時はっきり分かったから。
* * *
別れた帰り道、不思議なことが起きました。あんなに泣いていたのに、胸の奥に、ふっと軽いものが広がったんです。
悲しいのに、苦しいのに——どこかで、ずっと握りしめていた荷物を、そっと下ろせたような感覚。奇妙な解放感、とでも言うんでしょうか。あの感覚を、わたしは今でもよく覚えています。
もしかして、あなたも経験ありませんか。終わりを選んだ瞬間に、悲しみと一緒に、なぜか呼吸が楽になる、あの感じ。後ろめたいような、でも確かにある感覚を。
たぶんそれは、自分の心が「やっと自由になれる」って、小さく喜んでいたんだと思います。わたしはずっと、自分の声を無視し続けていたから。
恋は終わりました。でも、わたしの中では、何かが静かに始まろうとしていました。——空っぽになった胸に、これから何を入れていくのか。それを考えるのは、もう少しだけ、先のことです。





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